立山山ろくの「あわすのスキー場」は県内で2番目に古い歴史があり、富山のスキー文化をリードしてきたスキー場だ。3年前に閉鎖の方針が決まり、現在支配人を務める松井一洋さん(52)は先頭に立って存続運動を起こし、再建に取り組んでいる。63回目のシーズンも12月23日にスタートした。
老舗スキー場閉鎖の危機
粟巣野は1937年に常願寺川水系の電源開発のため、富山県営鉄道(現富山地方鉄道立山線)が資材運搬拠点を設けた場所で、川岸の高台に集落が形成されたのは戦後のこと。戦地からの引き揚げ者を中心に、森を切り拓き、道を作り、用水路を引いたが、寒冷な気候で作物の実りも少なく、牛を飼って酪農も行い生計を立てた。
1961年にスキー場がオープンすると、何もなかった冬の粟巣野へ電車に乗ってスキー客がやって来た。レジャーブームの中で関西からもスキーヤーが来るようになり、どの家も民宿を始め、地域経済の柱となった。
しかし道路網の整備が進むと長野県や新潟県の大規模スキー場へのアクセスが便利になり、スキーブームも落ち着き来場者が減少。2002年に運営会社が撤退を表明し、地元住民らを中心に「NPO法人あわすの」を設立して運営を引き継いだ。しかし収益は改善せず、20年の記録的な暖冬で損失が膨らみ、同年6月にNPOの解散とスキー場の閉鎖が決定した。
スキー場存続は地域の未来のため
松井さんは粟巣野で育ち、高校までスキー選手として活躍、社会人になってからはスキークラブの指導にあたった。東京に転勤となっても週末には帰省して指導を続けていたが、新型コロナが感染拡大する中でNPOの解散決定を知った。生まれて初めて富山を離れた生活を送る中で、故郷への思いが募り、スキー仲間らと「あわすのスキー場の復活を支援する会」を立ち上げた。インターネットや新聞でゲレンデの草刈りを呼び掛けたところ、コロナ禍にもかかわらず、大勢の人が応援に駆けつけた。スキー場の60年の歴史を実感し、存続の可能性を感じたという。
多くの債権者もスキー場の閉鎖は本意ではないとして債権放棄に応じてくれ、県内外から寄付も寄せられ、スキー場閉鎖は回避された。理事に会社経営者なども入って経営体制が整い、そして松井さんは30年間務めた会社を退職し、支配人としてスキー場の再建に専念することを決断した。
松井さんはまず、お客さんやスタッフと積極的に会話して意見やアイデアを集めた。初級コースは滑りやすく整備を徹底し、上級者向けに非圧雪エリアを設け、パウダースノーを楽しめる早朝営業も行うなど、スキー場の魅力向上を図った。夏にもゲレンデをキャンプ場として開放し、巨大ブランコや、4輪バギーなどアクティビティを充実させて、新たなファンの獲得にも力を入れ、昨年度は黒字化を達成した。
地元の女性による手打ちそばも評判で、もともと民宿をやっていたこともあり、お客さんとのやり取りはお手の物。「人が来るようになった」と地域の人達が元気になっていくのを感じている。
産業のない粟巣野にとって、スキー場は単なるレジャーの場所ではないという。最盛期に20軒あった民宿は2軒になった。住民の高齢化も進んでおり、この先、草刈りや除雪作業なども困難になっていくことが予想される。松井さんは「スキー場が魅力的な働き場所になって若い人を受け入れることができれば、地域の活性化だけでなく、様々な課題を請け負う受け皿にもなるはずだ」と地域の未来を考え、スキー場の企業としての価値の向上を目指している。
月刊富山県人 2024年1月号
コメント